100系新幹線、製造時に細かい変化が起きた。

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おはようございます、こおろぎです。

かつては、東海道新幹線に100系が走っていました。その100系は、1985年に登場したときはパンタが6つで、窓が小窓、2階建て食堂車と2階建てグリーン車を連結して走行、迫力ある姿を見せていました。

1986年に、100系は量産車が登場。窓が大窓になり、眺めがよくなりました。実は、この量産車が登場した時は、まだ2階建て車両を組み込んでおらず、12両編成となっていて、暫定的にこだまとして運転されました。2階建て車両の製造が間に合わなかったというのもあり、3か月ほどの間はこだまで走ったのですが、当時100系を知らなかった方はどのように感じたのかな?と思ったほどです。

そして、秋になってから、2階建て車両を含む、4両を組み込んで、16両編成を組成出来て、東京~博多のひかりに運転されることとなりました。ほぼ毎日のように東京~博多を走るので、かなり過酷な運用であったようです。1987年には、新たに2本が増備されて、2階建て食堂車付きの編成、X編成が、7本が出そろいます。

100系のX1編成は、小窓のままですが営業運転につき、その姿に多くの方がインパクトに残ったかもしれません。食堂車の中は、眺めがよく、壁には国鉄車両のエッチングが施されて、じゅうたんにはNSマークが書かれて、目を引きました。二階建て車両にも、NSマークが書かれて、インパクトを与えています。

その後、JR東海となってからは、車体にあったNSマークは無くなり、食堂車にあったものはJRマークが書かれました。かなり目を引きましたが、そのJRマークものちに車体の下に書かれて、ひっそりとしています。9号車にも2階建て車両のグリーン車があり、2階からの眺めがよく、1階には個室が設けられて、1人用のが5室、2人用は3室、3人用のが1室設置され、旅を楽しめる工夫がされていました。

昭和63年になってからは、100系「ひかり」が増やされることとなり、おもに東京~新大阪を走るものであったため、8号車の2階建て車両を、2階はグリーン車に、1階はカフェテリアとされました。いまはなき300系にあったサービスコーナーのようなものです。駅弁やみやげなどが置かれて、雰囲気を出していました。その100系は、G編成として3本が登場して、東京~新大阪を走行。

その後、G編成は増備が進められて、2階建てグリーン車に、4人用個室が登場。1人用を3室にして、2人用3室、3人用1室、4人用を1室設けました。最初に登場したG1~G3編成においては、G4編成以降と合わせるために、個室の配置を合わせる改造工事を実施しています。

G編成においては、1989年度に、G16~31が登場して、このとき、座席に足を乗せられるフットレストが設けれられて、また、屋根のパンタには、パンタカバーが装備されたり、特高圧引き通し回路の、ケーブルヘッドが装備されました。このときはブス引き通しの準備工事であって、まだケーブルはつながれていません。外観にかなり変化があった年です。

X編成と、G1~15編成は製造当初、パンタカバーがついておらず、1989年のうちにカバーの取り付けがなされました。そして、1990年には、G32~41が登場、車内の電光式掲示板が、文字テロップが大型化されています。文字が見やすくなったのです。それまでは時計表示や、あと何キロという表示がありましたが、大型化で省略されています。

そして、1991年に、ATき電方式の工事が完了して、パンタが6個であったのが、3個で運転ができるようになりました。奇数編成は、2号車、6号車、12号車のパンタを使用。偶数編成は、4号車、10号車、14号車のパンタを使用。使わないパンタは折り畳んでいました。

3台で運転できるようになったのは、特高圧引き通し回路を設置したことであり、平成3年の6月に工事は完了します。高圧のケーブルを屋根上に設置することで、パンタを折り畳んでいるユニットにも電気を送れるようになったのです。そして、100系はパンタ3台で運転をするようになりました。

なお、X編成と、G1~15編成には、特高圧引き通し回路と、ケーブルヘッドが設けられていなかったため、改造工事を実施して、パンタ3台で走れるようになりました。そして、91年には、G42~50が製造されて、車内のトイレや電話表示の案内板がすっきりした感じになっています。

ATき電方式が完了したあとに登場した車両であるため、最初から高圧引き通し回路が設けられていて、パンタも3台で運転していました。100系は、G編成の装備がこれで完了となり、93年以降は、東京~博多間にG編成も走るようになりました。

100系は、93年以降は何事もなく運用をしていて、X編成は東京~博多、G編成は東京~新大阪、もしくは岡山、広島、博多まで走ったものもありましたが、1995年になると、100系のパンタに変化が訪れます。きっかけは、300系が、パンタ3台搭載であったのを、2台にしたこと。乗り心地を改善するために、9号車にあったパンタを、カバーごと撤去したため。これによって、乗り心地が改善されたため。

そのことがあってか、100系は、奇数編成のように、パンタを2号車、6号車、12号車を固定使用することとなり、偶数編成においても、パンタは2号車、6号車、12号車を使用するようになりました。1995年以降、4号車、10号車、14号車のパンタが撤去されていきました。パンタがあった部分は、すっきりした感じの屋根となり、高圧母線も通っています。なお、カバーはそのまま残されて、それまで白色塗装であったのが、グレーに塗り替えられました。

そして、97年以降に、100系のG編成がこだまでの運転に入るようになり、当時はまだカフェテリアも営業していましたが、秋の改正で、カフェテリアは営業休止となり、どことなく終焉を迎えそうな雰囲気です。このときに、100系のG編成こだまの数はかなり増えています。

さらに、98年の3月改正では、100系のX編成がこだまにも登場するようになり、食堂車は営業をせず。一部、ひかりの運用でも走って、このときは食堂車は営業をしていましたが、10月の改正で、ひかり運用を離れ、こだまオンリーとなってしまったのです。そのころ、100系に合った編成表記は、左上に移設がされました。ちょっとした変化です。

そして、100系のX編成、細々とこだまで運転して、東京~名古屋・新大阪を走っていましたが、ひかり運用がなくなってからは、岡山や広島でその姿を見ることはできなくなっていました。99年の10月に、X編成は運用を離脱して、しばらく留置されていました。そして、2000年以降、X編成はすべて廃車となり、浜松工場へ回送されて、ほとんどが解体されました。

G編成においても、たまにひかりで走ることがありましたが、こだま運用をメインに走り、2003年にはすべての編成が引退になり、2004年までに、すべての編成が廃車、そして解体されました。JR東海の100系は、2004年にすべて廃車されることとなります。

しかし、X2編成の先頭車と、X1編成の食堂車は解体をまぬがれ、リニア鉄道館にて、静態保存されており、その姿を見ることができます。

G編成のなかで、G9、G10、G15、G19、G30、G43の6本は、16両編成であったのを、8両編成に組成して、博多に回送されています。JR西日本に譲渡されました。これは、JR西日本で走ったグランドひかりを、6両や4両に改造するときに、先頭車が必要となるためで、G編成の運転台を使用して、先頭車改造するというものです。かなりの手間がかかっているにもかかわらず、新幹線を長く走らせるための延命工事は、見事なものです。

100系は、2012年に引退になりましたが、0系と同じようなマスクで走り続けて、平成時代を駆け抜けて、多くの人の心にきざまれたことでしょう。

それでは、また。

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